大阪府 龍馬伝その1 八軒屋浜船着場
大阪
ブク... ブクブク... ブクブク...
バシャ~ン!
(前回からの続き)
というわけで、大阪にやって来たぜよ。

ここは“八軒屋浜”。

江戸時代に八軒の船宿などが並んでいたので、“八軒家浜”と言ったそうです。
京都と大阪を“三十石船”が往来し、淀川舟運の要衝でした。
“龍馬”もここから京都、伏見の“寺田屋”へ向かったのです

大阪府の“水都大阪”事業の一環なのでしょうか?きれいな説明の看板がありました。

“道沿いには旅籠や問屋が並び、船着場は旅人や運送にかかわる人々、客を呼び込む人たちの喧騒に包まれていた。”とあります。当時の様子が分かる絵がプリントされています。

この絵にもある、石の階段のようになっているのは、“雁木(がんぎ)”と言うそうです。物資の積み下ろしや人の乗り降りに便利なように工夫されているのだそうです。
三十石船は八軒屋と京・伏見の間、十一里余(45km)を上り1日、下り半日で
運行した。

京阪電鉄天満橋駅を出るとそこが“八軒屋浜船着場”でした。

このオシャレな建物は、2階がフレンチレストランになってたり、観光船案内所や情報発信スペースになっているようです。


ここは現在は“大川”と言いますが、昔は“淀川”の本流だったようです。
“坂本龍馬”の他にも、新選組など、多くの幕末の志士たちがここを利用したんでしょうねぇ。
鳥羽伏見の戦いの時は、慶喜がここから舟で逃亡したとも言われているそうです。

現在は、こんな観光船の船着場としてちゃんと機能しているようでした。
本日もありがとうございました。
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ここは“八軒屋浜”。

江戸時代に八軒の船宿などが並んでいたので、“八軒家浜”と言ったそうです。
京都と大阪を“三十石船”が往来し、淀川舟運の要衝でした。
“龍馬”もここから京都、伏見の“寺田屋”へ向かったのです

大阪府の“水都大阪”事業の一環なのでしょうか?きれいな説明の看板がありました。

“道沿いには旅籠や問屋が並び、船着場は旅人や運送にかかわる人々、客を呼び込む人たちの喧騒に包まれていた。”とあります。当時の様子が分かる絵がプリントされています。

この絵にもある、石の階段のようになっているのは、“雁木(がんぎ)”と言うそうです。物資の積み下ろしや人の乗り降りに便利なように工夫されているのだそうです。
三十石船は八軒屋と京・伏見の間、十一里余(45km)を上り1日、下り半日で
運行した。

京阪電鉄天満橋駅を出るとそこが“八軒屋浜船着場”でした。

このオシャレな建物は、2階がフレンチレストランになってたり、観光船案内所や情報発信スペースになっているようです。


ここは現在は“大川”と言いますが、昔は“淀川”の本流だったようです。
“坂本龍馬”の他にも、新選組など、多くの幕末の志士たちがここを利用したんでしょうねぇ。
鳥羽伏見の戦いの時は、慶喜がここから舟で逃亡したとも言われているそうです。

現在は、こんな観光船の船着場としてちゃんと機能しているようでした。
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