大阪府 龍馬伝その2 土佐藩邸跡
大阪
今回のテキストは、「龍馬がゆく」第5巻 回天編です。

前回いったのが、地図の赤い印、“八軒屋浜”でした。
より大きな地図で 龍馬足跡 を表示
次に向かったのが青い印、龍馬が大阪でお世話になっていたであろう、“薩摩藩蔵屋敷跡”。

先ほどの“八軒屋浜船着場”から、川沿いに西に向かった、“土佐堀通り”沿いにある、現三井倉庫の前にその碑はありました。
ちなみにややこしいけど、土佐堀川沿いにあるから“土佐堀通り”と言い、土佐堀川は、豊臣時代に土佐商人が集まっていたからその名になったそうです。


そして、今回のテキストの232ページ、龍馬は大阪の“土佐藩邸”に入り、宿をとります。
脱藩者であり、吉田東洋暗殺の嫌疑のかかっていた、つまり土佐藩にとってはお尋ね者だった龍馬にとって、“土佐藩邸”は避けることこそあっても、世話になることはありませんでした。
1867年の“四侯会議”に参加していた土佐藩代表の“山内容堂”は、薩摩藩主導の幕府排除の会合を嫌い、途中で帰ってしまう。→藩の参政、後藤象二郎が龍馬に相談。→“龍馬”は“大政奉還策”、“船中八策”を提案。→後藤と土佐藩邸に入る。→後藤はここから土佐へ帰ってしまった山内容堂を説きに、龍馬は京都へ薩摩藩を説得しに向かう。
“藩”を見限り、当然藩邸を必要としなかった“世界の浪人”坂本龍馬が賓客としてやって来た藩邸では、きっと大騒ぎだったでしょう。
そして最後に、地図の緑色のマーク。
ここが大阪の“土佐藩邸跡”になる、“土佐稲荷神社”です。

この神社は、古くから土佐藩蔵屋敷に鎮座していたものだそうです。
その神社の中には“岩崎弥太郎”の邸宅の跡を示す碑がありました。

明治に入り、土佐藩蔵屋敷といっしょにこの神社は岩崎弥太郎に譲り渡されました。岩崎弥太郎は当地で事業をはじめ、“三菱”の発祥の地となったのだそうです。
もうここで完全に日が暮れてしまい、細かい観察は出来ませんでしたが、神社を囲む玉垣には、三菱グループの企業の名前が沢山入っていました。三菱の聖地でもあるんですね。
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前回いったのが、地図の赤い印、“八軒屋浜”でした。
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次に向かったのが青い印、龍馬が大阪でお世話になっていたであろう、“薩摩藩蔵屋敷跡”。

先ほどの“八軒屋浜船着場”から、川沿いに西に向かった、“土佐堀通り”沿いにある、現三井倉庫の前にその碑はありました。
ちなみにややこしいけど、土佐堀川沿いにあるから“土佐堀通り”と言い、土佐堀川は、豊臣時代に土佐商人が集まっていたからその名になったそうです。


そして、今回のテキストの232ページ、龍馬は大阪の“土佐藩邸”に入り、宿をとります。
脱藩者であり、吉田東洋暗殺の嫌疑のかかっていた、つまり土佐藩にとってはお尋ね者だった龍馬にとって、“土佐藩邸”は避けることこそあっても、世話になることはありませんでした。
1867年の“四侯会議”に参加していた土佐藩代表の“山内容堂”は、薩摩藩主導の幕府排除の会合を嫌い、途中で帰ってしまう。→藩の参政、後藤象二郎が龍馬に相談。→“龍馬”は“大政奉還策”、“船中八策”を提案。→後藤と土佐藩邸に入る。→後藤はここから土佐へ帰ってしまった山内容堂を説きに、龍馬は京都へ薩摩藩を説得しに向かう。
“藩”を見限り、当然藩邸を必要としなかった“世界の浪人”坂本龍馬が賓客としてやって来た藩邸では、きっと大騒ぎだったでしょう。
そして最後に、地図の緑色のマーク。
ここが大阪の“土佐藩邸跡”になる、“土佐稲荷神社”です。

この神社は、古くから土佐藩蔵屋敷に鎮座していたものだそうです。
その神社の中には“岩崎弥太郎”の邸宅の跡を示す碑がありました。

明治に入り、土佐藩蔵屋敷といっしょにこの神社は岩崎弥太郎に譲り渡されました。岩崎弥太郎は当地で事業をはじめ、“三菱”の発祥の地となったのだそうです。
もうここで完全に日が暮れてしまい、細かい観察は出来ませんでしたが、神社を囲む玉垣には、三菱グループの企業の名前が沢山入っていました。三菱の聖地でもあるんですね。
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