戻って参りました。

鹿児島
07 /30 2012
 母方の祖母が亡くなりまして、葬儀の為鹿児島へ行って来ました。
 何人かの方から、お悔やみのお言葉を頂き誠にありがとうございました。
 葬儀の方は無事終了し、只今東京に戻って参りました。

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火葬場の控え室から望む桜島


 僕にはつい最近まで、父方、母方とも両親が健在でおじいちゃんおばあちゃんが2人ずついるという、幸福な環境でしたが、数年前に父方の祖父母が亡くなり、そして今回母方の祖母が残念ながら90歳で亡くなりまして、今は母方の祖父一人を残すのみとなりました。
 とは言っても、他の同世代の方々と比べると、かなり恵まれていたと思います。僕は父母が20歳の時に出来た子供なのに加え、祖父母が皆長生きだったので、僕の子供、つまりひ孫の顔を見せることも叶いました。

 この度亡くなりました、おばあちゃんの一族は宮城県の仙台の出身ですが、おばあちゃん自身は仙台に住んだことがありません。朝鮮で生まれ朝鮮で育ち、同じく朝鮮生まれ朝鮮育ちのおじいちゃんと、朝鮮で結婚しました。
 そして終戦を迎え、朝鮮半島から命辛々、おじいちゃん一族縁の土地である鹿児島へ逃げ帰って来たのです。

 おじいさんは戦争中、南方に出兵しましたが負傷し、終戦時は運よく朝鮮半島内での作業に回っていた為に、何とか満員の鉄道の煙突にしがみ付きながらも帰宅することができ、家族(僕から見てひいおじいさん、ひいおばあさん、おばあちゃん、0歳の叔父さん)と合流しました。
 その後ソビエトの兵隊に見付からないように、当時生まれたばかりの叔父さん(母のお兄さん)をおぶって山の中を移動しました。赤ん坊が泣くと敵国の兵隊に見付かる恐れもあるので、仕方なく朝鮮の人にあずけて逃げて来る方もあるような状況の中、今でも物静かな叔父さんは、全く泣くこともなく、無事に日本へ逃げて来ることが出来たのだそうです。
 そして数年後、鹿児島で母が生まれ、東京の大学で母と父が出会い、僕が生まれたのです。

 初孫である僕は本当に可愛がって貰いました。
 大人になって、出張のついでに顔を出していましたが、痴呆も始まっていた最近でも、僕の顔を見るとぱっと記憶が戻るようで、僕が幼かった頃の思い出話を楽しそうにしてくれました。

 数ヶ月前から寝たきりになってしまい、母が介護の為鹿児島へ行っていましたが、やはり数年前に父の両親の介護からやっと開放されたばかりのことで、とにかく頭が下がる思いです。

 僕らや、僕の子供達へと命をつないでくれたおじいちゃん、おばあちゃん。
 夫の両親、自分の両親区別無く、献身的に介護を全うした母親。
 綺麗ごとだけではなく、結婚とは何なのか、生きるとは何なのかを学ぶべきお手本が、僕のすぐ目の前にいて教示してくれる。

 こんなに有りがたい事はないかもしれない。

 そういった色々な思いを、この夏、終戦記念日やお盆を前にして、東京の帰りの機内でしみじみと考えておりました。


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たびぱぱ

大きくなった子供達とは中々時間が合わなくなり、家族で出かけることも減ってきましたが、僕は相変わらず全国あちこちブラブラしています。

休日は今年(2016年1月)から始めたロードバイク(コーダーブルームFarna700-105)に乗って出かけてます。
東京湾一周したり、富士山登ったり、長距離走るのを楽しんでいます!